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2017年6月30日 (金)

大学教育に関する考察 (という名の、ある日の衝撃体験メモ)

今週初めの新聞の書評欄に、『未来の学校:テスト教育は限界か』という本が紹介されていた。 → その書評のさわり

書評を読んだだけで、その内容がほとんど分かってしまうのは、書評の文章がすぐれている、プラス、まぁ、当然と言えば当然の内容だからである。

著者はアメリカ人なので、アメリカのことが書かれているが、これはそのまま日本にもあてはまる。

一言で言うと、「重要なのは、知識の集積ではなく、思考力だ!」という主張です。

「現場で直接、思考力を働かせて課題を解決する能力が求められる」時代だからです。まぁ、産業界からの要請ですね。

この本の最初には、企業経営者たちへのインタビューが載っているらしく、これからの「知識経済」に求められる働き手の資質として、

「的を射た質問をする能力」
「相手の目を見て対等に議論できる能力」
「他人と強調しながら仕事を成し遂げる能力」が重要と言う。

「暗記ではなく、論理的に考え分析する能力」が大事なのです、と力説されている。

しかし、アメリカの学校教育をみると、「とくに公立学校は、知識の獲得を依然として主目的とし、その達成度を筆記試験でチェックする従来型から脱却できていない」ということらしい。あら、アメリカも日本と同じようなものなのね、と思う。

日本も、「知識の獲得」重視から、「思考力」重視へのシフトに躍起で、それは、4年後に大学入試を、「センター試験」から「思考力重視の試験」に移行しようという改革にも表れている。

新しい入試が、一体どういうものになるかは「見もの」ですが、まぁ、それくらい「知識の集積より思考力が大事!」というのが、浸透しつつあるということです。

となると、大学の授業でも、「知識の獲得を主目的とするのではなく、思考力を養うような授業を!」というプレッシャーがひたひたと押し寄せてくるわけで、「知識の伝達」を主目的とするような授業をしている私としては、「このような授業をしていて、いいのだろうか」と、疑問を抱くようになる。

卒論執筆を目的とするようなゼミは、まだいい。学生が自主的にテーマを決めて調べ、発表し、論文に仕上げる。 「思考力の涵養」を謳う本書でも、お勧めの授業形態である。

語学の授業も、まだいい。語学の「知識の獲得」を目的としているので、文法を説明し、単語を覚えさせ、練習問題を解かせて、語学力を身につけさせる。テストも、知識獲得の達成度をはかるバリバリの筆記試験で十分である。

問題は、講義科目の授業です。アフリカ言語学概論。こういった授業の目的をどのへんに定めたらいいのかが、悩みどころです。

アフリカの言語について講義する。 アフリカにはねぇ、こんな言語があってねぇ、こんな系統に分かれていてねぇ・・・。 ここの国ではこんな言語があって、あっちの国ではこんな公用語があって・・・。 こんな風に言語が使われていてねぇ。 こんな言語現象があってねぇ・・・。

しばらくすると、あちらこちらで、居眠りする姿が見受けられる。うぬぬ。

スマホをいじっている学生には、「スマホしまってください!」と注意するが、居眠りしている学生を起こすのは、ためらわれる。すみません、眠いよね、大して興味もない話、聞いてるだけじゃ眠くなるよね。眠くさせている私が悪いんです、という気分になる。

というわけで、少しでも眠気を誘わないような授業を、と思うのだけれど、これが難しい。ゼミのように毎回、発表やディスカッションができればいいのだけど、それだけでは講義の授業は回らず、どうしても「講義する」部分が必要になる。

そりゃぁ、いろんな講義の仕方がありましょう。すばらしく準備されたスライドに、映像や音響を伴ったスペクタクルな講義。熱意あふれる話術に知的好奇心が刺激され、ワクワクと耳を傾けたくなるような講義。

そんな講義ができない場合は、どうすればいいのでしょうか。こういう時に、「知識の獲得」を目的とする授業は便利です。 「はい、ここ、テストに出まーす」といえば、目をぱっちりと開けて、注目してくれる。いっそ、レポート課題をやめて、講義内容をテストする方法にするか? うーん、それだと、いつまでたっても、「知識の獲得を主目的とする授業」から脱却できないしなぁ。

まぁ、このように悶々としながら、まいど講義の授業を行っているわけですが、せめて、手でも動かしながら授業を聞けば、眠気を防げるのではないか、と考えてみる。

講義の内容を全部ノートに書き取る、という、なんだか明治時代的な講義風景は、望むべくもないが、少しでも書く作業を伴うようにと、資料のプリントを穴埋め式のものにして配布し、講義をする。

はい、ここ、official language 「公用語」ですね。セネガルの公用語は、はい、フランス語ですね。「フランス語」と入れておいてくださーい。広く話されている言語は、ウォロフ語。はい、「ウォロフ語」と書いておいてくださーい。何語族ですか? そう、「ニジェール・コンゴ語族」ですね。その中の? はい、そうです、「大西洋語派」に属しますね。「大西洋語派」と入れておいてくださーい。

うーん、結局、「知識の獲得」が主目的になってるなぁ、と思いながら授業をしていると、プリントに突っ伏して寝ている学生、発見。

寝ている子を起こすのは忍びないが、この場合、起こした後にやらせる作業があるので、起こしやい。近づいていって、肩を叩き、「はい、起きて。 はい、ここに書いてください、ここ。 ここ、ウォロフ語、ね。」とプリントを指さす。

すると、だるそうに起きた学生は、「書きたくありません」と言った。へっ!?

「こういう意味のないこと覚えるの、いやなんです。やる気になりません」

「意味ないって・・・。アフリカ言語学の授業だから、どこでどんな言語が話されているとか、どんな系統だとか、そういうのは一応覚えておいてもらわないと」

「そういう記号みたいなのを覚えるのが、苦痛なんです」

「苦痛って・・・。でも、中学や高校の授業って、こういう暗記みたいなことをする授業だらけだったんじゃないの?」

「はい、だから苦痛でした。興味のない、記号みたいなのを覚えるようなことは全部避けてきました」

「避けてきました、って、それじゃ、単位とか取れないんじゃない!?」

「だから、取らなくていい授業は取らなかったです」

そう言って再びプリントの上に突っ伏した学生に、私は言う言葉が見つかりませんでした。

わーおっ、もしかしてこれは、「知識の獲得より思考力の涵養をめざせ!」教育の完成形!?

常日頃からの 「この授業、思考力を養うというよりは、知識の集積に重きをおいてるなぁ~。どうしたらいいのかなぁ~」 という私の迷いの間隙を突かれた、衝撃の体験でありました。

・‥…━━━☆・‥…━━━☆

はい、今日の講義のまとめでーす。

1.時代は、「知識の集積」よりも、「思考力の涵養」を求めている。

2.「思考力の涵養」に資する授業とは、どのような授業なんですか!? と教員たちは日々、自問している(と思う)。ゼミみたいな授業ばっかりも、できないし。

3.「ここ、テストに出まーす」というのは、興味のない授業を聞いている学生を引き付ける、有効的で安価な武器なのでした、実は。

4.その「武器」なくして戦うには、私はあまりにも旧態然とした授業しか知らず、日々悶々としながら、授業を続けるのでありました。

・‥…━━━☆・‥…━━━☆

【イメージ図】 

<グループワークをおこないながら、活発に議論する学生たち>

2015_1028ai

「こうして、思考力は養われるのでありました」 みたいな!?

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コメント

 授業と言えば、非常勤で来られていた故庄垣内先生のウイグル語の授業が思い出されます。
 先生の話も面白いし、授業の題材が、あの井上靖の「敦煌」で主人公は必死に隠した仏典でしたので、感動した記憶があります。書かれているのは「宇治拾遺物語」のような仏教説話でしたが。

book pencil おぉ、庄垣内先生の授業 sign01

庄垣内先生の授業は、というか、先生のお話は、とてもおもしろかったですね heart02

自分が大学で授業をするようになって、学生時代に受けた授業を縷縷思い出すのですが、庄垣内先生の授業も楽しかった授業の一つです。

授業の内容はほとんど覚えていませんが、先生のお人柄とそのお話しぶりが楽しかったのは、よく覚えています。

やっぱり、「人柄」と「深い造詣」ですかねぇ、授業をおもしろいものにするのは・・・。 そして、こればっかりは、真似したくてもできるものでは、ないんですよねぇ~ sweat02

『敦煌』に出てくる仏典を読めるなんてすごいsign01 と感動してくれる学生がいる、というのは、先生にとっても嬉しいことだったでしょうね。

考えてみれば、仏典を研究されていたんですよね、庄垣内先生は。 
そういう方はやっぱり、天国でもお釈迦様と楽しくご談義されたり、してらっしゃるんでしょうね shine 合掌


小森先生と庄垣内先生の接点はトルコ語ですか?
敦煌の遺跡から出た仏典の授業に感動していたのは自分だけだったかも知れません。もちろん発掘された現物を見たわけでもなく、その遺跡から出た書物に書かれていたウイグル文字を先生が黒板に書き、勉強するような授業でした。しかし、井上靖の「敦煌」を読み、主人公が騎馬民族から必死に仏典を守るべく壁に埋め込んで残された文書というだけで感動したものです。

bookpencil 庄垣内先生 heart04 には、

大学院の時に教えていただきました。
外大を出てから二浪して、京大の言語学専攻の大学院に入学したんですが、言語学という学問が難しすぎて、ついていくのに必死でした sweat02

そんな中で、当時は京大にも非常勤で来ていらっしゃっていた庄垣内先生の、確か、チュルク諸語の概論のような授業を受けたように思います。

言語学の授業は、どれもつらい思い出が多いのですが、庄垣内先生の授業だけは別で、先生の授業に行く時は、いつもルンルン heart01 とした気分で、教室に向かったことを、よく覚えています。それくらい、楽しかったです。


> 主人公が騎馬民族から必死に仏典を守るべく壁に埋め込んで残された文書というだけで感動したものです。

壮大なロマンを感じますよね notes
庄垣内先生はじめ、古い文献を解読したり、読み解いたりする研究をされている先生方は、その文献のもつ歴史や、その文献が語る世界に、ロマンを感じておられたんでしょうね。

そういう「ロマン」に対するわくわくする気持ちと、また、そういう気持ちこそが研究にとって一番大事なことなのだということを、先生から教わったような気がします pen


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